私について | My Story


 

太田 裕剛(Hirotaka Ota)

 

ヒーラー、シャーマン、ライトワーカー、スピリチュアルガイド、レイキマスター、錬金術師

L.C.I.C.I.JAPAN認定セラピスト(チャンピサージ、インド式フェイスケア)、ヘッドタッチケア講師

 

(*今までに修得した技術・ワークに使用する手法についてはこちらをご覧ください)

 

 

<幼少期の頃の私>

 

1970年7月23日、神奈川県小田原市で生まれました。

感受性がとても豊かな子供でした。 

 

空想の街の地図をひたすら描いてたり、庭の木々や花の鮮やかな色合い、部屋に差し込む太陽の光や風の感触にひとり感動して涙ぐんだり…

 

夜になれば布団の中で「この宇宙はどこまで広いのだろう?」「死んだらどうなるのだろう?」「自分は何のために生まれて来たんだろう?」と思いを巡らしているうちに怖くなり、お気に入りのぬいぐるみをいくつも枕元に並べて、毎晩何十回もお祈りをしていました。

 

「家族みんながずっと元気で、絶対に死にませんように。神様どうかお願いします!」

 

思えばこの頃からすでに、目に見えないものに対して好奇心が人一倍強く、大切なものを失うことに対して、何故かいつも怯えていた子供だった気がします。

 

両親共に、小田原から都内までの長距離通勤でしたので、家族揃って一緒にいられる時間は限られており、甘えん坊だった私は、常に寂しくて仕方がありませんでした。

 

小学生の頃は、喘息持ちで、貧血症でしたので、学校でよく気を失って倒れたり、給食を食べるのも遅く、いつも教室の後ろで一人で食べさせられていました。

 

漏斗胸と言って、肋骨が内側に凹んでいて呼吸がしずらく、心臓がバクバクしやすかったり、見た目的にもコンプレックスがありました。

 

この頃から何となく「自分は何かが他の人と違う」「馴染めない」「どこにいても居心地が悪い」「どうしてみんなみたいに出来ないんだろう」そんな風に考え悩むようになりました。

 

日中あずけられていた父親の実家で一人でいる時に、不思議な体験を度々しました。

頭の中で大音量で聞こえる超音波のような耳鳴り、そこにいるはずのない人の気配、曽祖母が亡くなる直前には、いわゆる霊界からのお迎え的な現象に遭遇したり。

 

その頃、両親の仲がどんどん悪くなりはじめました。

子供ながらに、幼い妹には二人のそういった姿を見せたくないと思い、喧嘩が始まりそうになるとジョークを言って気をそらしたり、ピエロのように自分が振る舞うことで、家庭の雰囲気が良くなるように気を配ることを覚えはじめました。

 

自分の本当の感情を隠し、辛い時でも無理やり笑顔でいることを続けているうちに、笑おうとすると頬の筋肉がピクピクと痙攣するようになりました。

他の人にわかるほどではないものの、自分にとっては違和感が常にあり、二十歳を過ぎる頃くらいまでこの症状はずっとあったように記憶しています。

 

思春期に入ってくると、自分の恋愛対象が同性であることについても悩みはじめました。

 

「自分は病気なんだろうか」「大人になれば普通になれるんだろうか」「自分は結婚して子供や家庭を持つことも出来ず、一生孤独で生きていくんだろうか」

いじめられたり、馬鹿にされたり、嫌われることを恐れ、誰にも相談することが出来ず、自分の中でずっと葛藤し続けていました。

 

「ヒロって悩みとか無さそうでいいね」「ヒロといると何でも話したくなっちゃうんだよな」

そう言われることが多かったのとは裏腹に、自分の気持ちを素直に出すことが出来ず、感情を隠すことを知らないうちに身につけてしまった私は、心の中ではいつも孤独でした。

 

 

<アメリカ生活での光と闇>

 

高校卒業後は、アメリカのワシントン州にいる親戚のところにホームステイをさせてもらいながら、Bellevue Community Collegeという短期大学に入学しました。

この頃の私は、16人編成のジャズボーカル部に所属していて、学校のカフェテリアで歌ったり、音楽祭やコンテストに出場したりして、言葉の壁はあったものの刺激的で楽しい時間を過ごしていました。

LAのディズニーランドのパーク内にあるアマチュアステージで、メンバーたちと歌った経験は今ではいい思い出です。

 

母親方の祖父母は、二人ともアメリカ生まれのいわゆる日系人二世で、第二次世界大戦中は強制収容所に入れられて、戦争が終わった翌年に氷川丸の船に乗って帰国したという経緯があります。

 

祖父母は、収容所で過ごした時のネガティブな話は一切私にしませんでした。

その代わりに、広大な土地の美しさやフルーツの美味しさ、二人のロマンティックな出会いなど、ワクワクするような話ばかりを聞かされて育った私は、いつの間にかアメリカに対して強い憧れを持つようになっていたのです。

 

人生で初めて、アジア人であることで人種差別をされるという経験をしたのもこの頃です。

 

しばらくアメリカで暮らしているうちに、日本特有の季節折々の美しさや、日本人のきめ細やかな気遣い、そして優しさといったものに、逆に気づけるようになったことは、今でも宝物だと思っています。

 

短大を卒業した後はサンフランシスコに引っ越し、Academy Of Art Universityに編入しました。

インテリアデザインを専攻し、卒業後はインテリアショップのセールスや、イタリアンモダン家具のショールーム・マネージャーのお仕事をしながら暮らしていました。

 

一見、すべて順調な流れだと思われるかもしれませんが、サンフランシスコでの生活は、自分の中ではまさに、光と闇そのものでした。

 

街の美しさや個性的でカラフルな人たちに魅せられて、楽しくてエキサイティングなことをたくさん体験しました。

アロマセラピーやスピリチュアル、占星術に出会い、独学で色々と学び始めたのもこの頃です。

 

セクシャリティーに関しても、とてもオープンで寛容な場所だったので、やっと自分に正直に生きられる!そう思ってワクワクしました。

 

ところがあるきっかけを境に、私はダークな世界へと一気に引き込まれて行きます。

 

精神的に不安定になり、自分の心と身体を痛めつけ、最終的に自分のアパートに引きこもるようになり、金銭的にも底をついて、絶望的な状態にまで落ちぶれて行きました。

 

良くない人とのお付き合い、裏切りや挫折、DVをされて警察に助けを求めに行ったこともありました。

そんな状態で仕事も失い、うつ状態になり、意識が朦朧とした状態で、ある日アパートの窓を開けようとした瞬間に、突然窓が割れて、手首を大きく切ってしまいます。

噴水のように吹き出す血をぼーっと見つめることしか出来ない私に、ルームメイトが即座にカーテンを引きちぎり、手首をぐるぐる巻きにし、救急車を呼んでくれました。

 

もしその時私ひとりだったら、ガラスで切った場所があと数センチずれていたら、もしかしたら私は今ここに居ないかもしれません。

 

このままだと、ヒロは本当に危ないと判断した友人たちが、親に連絡をしてくれ、半強制的に日本に帰国することになりました。

その時の友人は、私の命の恩人です。

 

日本に帰ってきてからしばらくの間は、父親と大げんかをしたり、イライラして家族に八つ当たりしたり、今思うと本当に申し訳ない事ばかりしていました。

 

親不孝者の自分が情けなくて、でもどうしたらいいのか分からなくて、怒りと不安でいっぱいで、身体と心が完全にバラバラな状態になっていました。

 

「このままではいけない」

そう頭では分かりながらも、心と身体がいうことを聞かない。

そんな状態がしばらく続きながらも、両親と妹のサポートがあったおかげで、少しずつ心と身体の平穏を取り戻して行きました。

 

 

<箱根の高級旅館でおもてなしの心を学ぶ>

 

ご縁をいただき、強羅花壇という箱根で有名な高級旅館で、客室係としてお仕事をすることになりました。

アメリカでの生活が長かったせいで、日本人としての社会的なルールがわからず、初めの頃は自分の居場所を見つけるまでとても苦労しました。

それでも、人の気持ちや求めているものを察する能力は、幼少期の頃から持ち合わせていたので、それをフルに活用しながら、「日本人ってどうだったけな?」というところで自分自身を逆に洗脳させることに、その時は必死だった気がします。

 

お客様の喜んでくださる笑顔に癒されながら、少しずつやりがいを感じ始め、気づけば国内外数々のセレブリティーゲストをおもてなしするまでになっていました。

 

旅館というのは面白いところで、どのような方もお部屋で浴衣に着替えると、日常つけている鎧を外し、素の自分に戻ったような姿になります。

見た目通りに豊かで幸せそうな人、金銭的には豊かでもあまり幸せそうに見えない人、色々な人間模様を見てきました。

今思えばこの頃の経験一つ一つが、今のお仕事にとても活かされています。

 

次第に職場での責任も増えていく中で、能力不足による大きな挫折を何回か味わいます。

相手に合わせ過ぎて、人に頼むことを恐れ、自分一人で抱え込んでいるうちに、また少しずつ心と身体のバランスが崩れて行きました。

 

アメリカで自分がやらかした過ちを精算するために、今度こそ!と頑張って働いていたのに、また同じようなうつ状態になっていく自分が情けなく、自分を責めました。

 

病院に行って色々調べても原因が分からない高熱が続き、良くなったかなと思って出勤するとまた職場で倒れるというのを何度か繰り返し、11年続けた仕事を辞めざる終えない状況になってしまいました。

 

 

<ヒーリングとの出会い>

 

この頃、アロマセラピーを勉強していた妹から言われた「ヒロちゃん、ヒーリングとか合ってると思うよ」の一言がきっかけで、レイキヒーリングを学び始めます。

 

初めは何となく始めたスピリチュアルな学びでしたが、もともと子供の頃から興味があった目に見えない世界のお話が楽しくて、気づけば様々なヒーリングの講習を次から次へと習得していくようになりました。

 

アーユルヴェーダの叡智を取り入れたインド式ヘッドケア「チャンピサージ」にも出会い、肉体と心とスピリットの三つ共に働きかけるボディーワークがあることに感動し、セラピストとして技術の習得に励むようになったのもこの頃です。

 

当時お世話になっていたスピリチュアルティーチャーの方が、私に何気なく言ったひとことで、忘れられない言葉があります。

 

「ヒロ君、それはあなたの個性ですよ」

 

その時は正直あまりピンと来なかったのですが、その言葉は私の中にずっとあって、少しずつ時間をかけて、私の深いところにある「恐れ」や「心の傷」を癒し、それまで自分で封印していた能力を開いていくことになります。

 

自分の個性を受け入れられずに、他人と比較ばかりしていつも苦しんでいました。

みんなのように出来なくてはいけない、そうでないと認めてもらえない、そう強く思い込んでいました。

 

幼少期から青年期にかけての、いくつかのトラウマ的な経験から自分で勝手に作り上げてしまった思い込みに、私は大人になってもずっと囚われていたのです。

それによって、様々な問題を自分が引きつけていた事に気づくのに、本当に長い時間がかかりました。

 

 

<シャーマンとしての覚醒>

 

2015年9月、ネイティブアメリカンの居住区で修行をし覚醒したシャーマンの方と、高次元グリッドで繋がり、「見習いシャーマン」として活動するための伝授をして頂きました。

 

その直後、何かに突き動かされるようにして沖縄に渡り、聖地を巡ったり、内観をしながら、約1ヶ月間ひとりの時間を過ごしました。

 

2016年3月には、アロマセラピスト/講師をしていた妹のYuriと共に、ホリスティックヒーリングサロン CHAMPI CHAMPI をオープンしました。

インド式ヘッドケア、フェイスリフトケア、エネルギーワーク、レイキ講習、アロマセラピー講習、アロマと九星気学を使ったリーディングセッションなどを提供しながら、妹と二人三脚でサロン経営に邁進する日々を送りました。

 

手探りで始めたヒーリングサロンの経営で、思い通りに行かない事もたくさん経験しました。

「もう続けることは無理かもしれない!」と、窮地に追い込まれた時、今でも忘れられないような強烈な霊的体験をし、亡くなった祖父母や高次元の存在達からの祝福と力強いサポートに支えられていることを深く理解しました。

 

2020年8月、英国リーブスインスティチュートの朝倉裕美子氏による、シャーマン覚醒の伝授とトレーニングを、トレーナーの方にも手助けをしていただきながら修了し、宇宙霊障対応カリスマシャーマンとして覚醒したのです。

 

2021年には、通常のヒーリングセッションに加え、ご縁のある方で霊的な悩みをお持ちの方に向けて、霊障解消ワークの提供も開始しました。

 

シャーマンとして人や土地、目に見えない存在たちの波動を上げるお仕事をさせていただくことで、喜びや感動をそれまで以上に感じることができるようになりました。

 

また同時に、自分自身が深いところで持っている問題や抵抗が浮上し始め、時にはスピリチュアル・エマージェンシーになることもあります。

 

自分自身とじっくり向き合い、心と魂の傷に気づき、それらを受け入れ、解放するたびに、私は本当の自分を取り戻していきました。

それが出来たのは、本当にたくさんの人々や、目に見えない存在達からの手助けがあったからこそ。

「人は一人では生きられない」

そのことを強く実感する毎日を、今では過ごしています。

 

 

<メッセージ>

 

Are you happy?(あなたは幸せですか)

そう聞かれてあなたはどうお答えになりますか?

私はアメリカにいた頃、この質問を友人に不意に聞かれて、喉がぐっと詰まって答えられなくなってしまった経験があります。

 

その時から私は「幸せ」って何なんだろう?

この問いかけを心の底でいつもしてきました。

スピリチュアルやヒーリングの学びも、今思えばすべてその意味を知りたいという強い探究心からずっと続けている気がします。

 

幼少期から大人になるまで、いや正直を言えば40代中頃までの私は、自分が幸せだとはどうしても思えませんでした。

もっと若い頃から才能を発揮していらっしゃる方々がすごく羨ましくて、自分と比較していつも落ち込んだりもしていました。

 

それでも、今あの時と同じ質問をされたとしたら、間違いなく「私は幸せです!」と心の底から答えます。

 

それは苦しかったり困ったりすることが無くなったからではありません。

ありのままの自分を、以前よりも受け入れることが出来るようになったからです。

 

この広い宇宙の中で唯一無二の存在である「私」を、世界でいちばん大切にしなくてはいけなかったのは、自分自身だったのです。

 

以前の私は、どちらかというと他人の幸せのために生きてきました。

気を使いすぎて疲弊して、自分自身の欲求や喜びに蓋をして。

ありのままの自分の個性を受け入れず、誰かのように一生懸命になろうと努力した結果、心身のバランスを何度も崩してしまいました。

 

そういった体験一つ一つが、シャーマンとして人や目に見えない存在たちを癒し導くためのイニシエーション(通過儀礼)のようでもあったのかなと、今ではすべてを受け入れています。

 

どのような境遇にいらっしゃる人でも、癒させれれば癒されるほど、その人だけにしかない輝きや能力が引き出されてくることを私は実体験から知っています。

そしてその可能性と広がりは無限です。

 

そんなお手伝いをご縁のある方にさせていただきたい。

いつもそう心の底から願っています。

 

今目の前がどんなに真っ暗だったとしても、その先には必ず光があります。

今こうして生きているこの瞬間が、どれだけの奇跡の積み重なりから出来ているのか…

本当に大切なことって、時にネガティブな体験を通してでないと、気づくことがむずかしかったりするのかも知れませんね。

 

謙虚な気持ちを忘れずに、一生をかけて人間・愛・宇宙について、皆様と共に学んでいきたいと願っています。

 

 

愛と感謝を込めて

太田 裕剛(Hirotaka Ota)